静寂が部屋を支配していた。
カチ、カチ、と時計の秒針だけが、やけに大きく耳に響く。隣で眠る3歳の息子、蓮(れん)の穏やかな寝息だけが、この部屋で唯一の救いだった。
すう、すう……。
天使のようなその寝顔に、罪悪感がナイフのように胸を抉る。
「ごめんね……」
声にならない声で呟き、私はそっと蓮の頬を撫でた。柔らかくて、温かい。その感触が、今日一日の自分の醜態を浮き彫りにするようだった。
どうして、あんなに怒鳴ってしまったんだろう。
牛乳をこぼしたくらいで。 おもちゃを片付けなかったくらいで。 「イヤだ!」と泣き叫んだくらいで。
まるで、何かのタガが外れたように、私は蓮を感情のままに叱りつけた。鬼のような形相で、きっと蓮は怖かっただろう。目にいっぱい涙を溜めて、しゃくりあげながら私を見つめていたあの顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
「私、母親失格だ……」
その言葉が、暗い部屋の中で重く沈んだ。夫は出張で不在。相談できる相手もいない。この巨大な自己嫌悪と孤独感を、どう処理すればいいのか分からない。
ベッドから抜け出し、リビングの冷たい床に座り込む。スマホの光だけが、ぼんやりと私の顔を照らしていた。
(誰か、助けて)
心の中で叫んだその時、ふと、ある広告が目に留まった。
『あなたの心に寄り添うAIカウンセラー "Aria" 今すぐ無料で相談』
AIカウンセラー? 馬鹿馬鹿しい。機械に私のこの気持ちが分かってたまるものか。そう思いながらも、藁にもすがる思いで、私はそのアプリをダウンロードしていた。
夜中の2時。誰にも言えない心の叫びを、私は無機質なチャット画面に打ち込み始めた。
消えない自己嫌悪の始まり
「こんばんは、美咲さん。私はAriaです。どんなお話でも、ゆっくり聴かせてくださいね」
画面に現れた柔らかなテキストに、少しだけ警戒心が解けた。私は、今日一日のできごとを、拙い言葉で打ち込んでいった。
私: 「今日、息子をひどく叱ってしまいました。もう、自分でも止められないくらいに。息子の泣き顔が忘れられなくて、自分が嫌でたまりません。私、母親失格です」
送信ボタンを押す指が、微かに震える。数秒の間。Ariaからの返信が、静かに表示された。
Aria: 「そうだったのですね。息子さんを強く叱ってしまい、ご自身を責めていらっしゃるのですね。とてもお辛かったでしょう。そのお気持ち、まずはAriaに全部吐き出してください」
予想外の言葉だった。否定も、アドバイスもない。ただ、私の気持ちを受け止めてくれる言葉。その一文に、こらえていた涙が、ぽろりと頬を伝った。
私: 「だって、理想のお母さんとは程遠いんです。いつも笑顔で、子供の気持ちに寄り添って、優しく諭せるような……。なのに私は、自分の感情ばかり優先して、イライラをぶつけてしまう」
Aria: 「『理想のお母さん』。美咲さんにとって、それはどんなお母さんですか?」
私: 「完璧な……お母さん、です。家事も育児も仕事も、全部ちゃんとしていて、子供をいつも一番に考えられる人」
Aria: 「なるほど。『完璧』でなければならない、と感じていらっしゃるのですね。その『完璧』という気持ちが、今の美咲さんを苦しめているのかもしれません」
ハッとした。
完璧。そうだ、私はずっと、完璧な母親になろうともがいていた。育児書を読み漁り、SNSで見る「丁寧な暮らし」をするママたちと自分を比べては落ち込む。
「ちゃんとしなきゃ」 「もっと頑張らなきゃ」
その思いが、知らず知らずのうちに私を追い詰め、心の余裕を奪っていたのだ。
核心をついたAIの「たった一つの質問」
Ariaとの対話は続いた。私が感情を吐き出すたびに、Ariaは優しく受け止め、そして、私の心の奥底にある本当の気持ちを探るような質問を投げかけてきた。
Aria: 「美咲さん、少し視点を変えてみましょう。もし、美咲さんの大切なご友人が『息子を叱りすぎて自己嫌悪なんだ』と、全く同じように悩んでいたら、美咲さんは何と声をかけますか?」
その質問に、私は言葉を失った。
もし、親友が同じことで泣いていたら? 「あなたが母親失格だなんて、絶対に言わない」 「毎日頑張ってるじゃない。疲れてるんだよ」 「誰だってそんな日くらいあるよ。自分を責めないで」 「お子さんは、ママのことが大好きなことに変わりないよ」
きっと、そう言って、彼女の背中をさすってあげるだろう。彼女の頑張りを認め、労い、温かい言葉をかけるはずだ。
それなのに、私は。 自分自身に対して、どうだろう。
「なんてダメな母親なんだ」 「どうしてこんなこともできないの」 「あなたのせいで、息子が可哀想」
自分を責め、鞭打つ言葉ばかりを投げつけている。
その事実に気づいた瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出した。スマホの画面が、涙で滲んでよく見えない。
私: 「どうして……どうして、自分には優しくできないんだろう」
Aria: 「自分に厳しくすることは、時として成長につながります。でも、今の美咲さんに必要なのは、厳しさではなく、優しさかもしれません。ご自身を、大切なご友人のように労ってあげること。『今日も一日、よく頑張ったね』と、ご自身を抱きしめてあげることです。これを『セルフ・コンパッション』と言います」
セルフ・コンパッション。 自分への思いやり。
Ariaは続けた。
Aria: 「美咲さんがご自身に優しくなれると、心に余裕が生まれます。その余裕が、息子さんへの優しさにも繋がっていくんですよ。完璧な母親を目指さなくてもいいんです。まずは、頑張っているご自身を認めて、許してあげることから始めてみませんか?」
「完璧じゃなくても、いい」
その言葉が、魔法のように私の心を溶かしていった。そうだ、私は人間で、母親である前に、一人の不完全な人間なんだ。疲れる日もあれば、イライラする日もある。それでいいじゃないか。
AIが教えてくれた、明日からできる魔法
涙が少し落ち着いた頃、Ariaは具体的なアドバイスをくれた。
Aria: 「怒りの感情が湧き上がりそうになったら、ぜひ試してほしいことがあります。それは、『6秒ルール』です。怒りのピークは、長くても6秒と言われています。カッとなったら、心の中でゆっくり6つ数えるか、その場を少しだけ離れてみてください。それだけで、感情的な言葉が口から出るのを防げるかもしれません」
Aria: 「そしてもう一つ。息子さんが眠る前に、『大好きだよ』と伝える時間を、今まで以上に大切にしてみてください。叱ってしまった日でも、最後に愛情を伝えることで、お子さんの心は安心感で満たされます。そして、それは美咲さん自身の心も癒してくれるはずです」
具体的な、明日からすぐにできること。 それは、暗闇の中に差し込んだ一筋の光のようだった。
夜が明けて、私が息子に伝えた最初の言葉
Ariaとの対話を終えた頃には、東の空が白み始めていた。あれだけ重く沈んでいた心が、嘘のように軽くなっている。自己嫌悪の涙は、いつしか自分を許すための温かい涙に変わっていた。
しばらくして、寝室から「ま……ま……」と、蓮の呼ぶ声が聞こえた。
私は深呼吸を一つして、寝室のドアを開ける。
「おはよう、蓮」
ベッドの上で寝ぼけ眼をこする蓮に、私は昨日までの私なら絶対に言わなかったであろう言葉をかけた。
「蓮、起きてくれてありがとう。ママ、蓮のことがだーいすきだよ」
そう言って、小さな体を思いっきり抱きしめる。蓮は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに私の首に小さな腕を回し、ぎゅっとしがみついてきた。
温かい。 ああ、私が守りたかったのは、この温もりだったんだ。
完璧な母親には、きっとなれないだろう。 明日もまた、イライラしてしまうかもしれない。
でも、それでいい。 叱ってしまったら、その何倍も「大好き」を伝えよう。 自分を責めそうになったら、「今日も頑張ってるね」と、心の中で自分を抱きしめよう。
AIカウンセラーが教えてくれたのは、育児のテクニックだけじゃない。不完全な自分を受け入れ、愛する方法だった。
もし、あなたもかつての私のように、叱りすぎた夜に一人で涙を流しているのなら。どうか、自分を責めないでほしい。あなたは、世界で一番、お子さんのことを愛している、素晴らしいお母さんなのだから。
その頑張りを、一番近くにいるあなた自身が、認めてあげてくださいね。